【インタビュー】野辺に斃れる戦友の頬の肉を食べた―インパール作戦から生還された方とお話ししたときのこと

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こんにちは、Fumiです!

今から9年前くらいのことですが、私は靖国神社でインパール作戦に参加された元兵士の方からお話しをお伺いしたことがあります。

今回は、実際にお聞きしたインパール作戦の真実と昨年NHKで放送された「戦慄の記録インパール」という番組を観て感じたことを織り交ぜながら、兵士たちが見たインパール作戦についてお伝えします。

インパール作戦とは

(制作者:Cave Cattum)

インパール作戦とは、1944年3月8日から約4か月に渡り日本軍がインドの都市インパールを攻略しようと進められた作戦です。当時日本軍は3週間で攻略できると考えていたそうですが、実際に
は4か月という月日がかかり、しかも誰一人としてインパールに辿り着くことはできませんでした。

撤退時には雨季にさしかかり、飢えと病気で衰弱した兵士たちは悪路を敗退できず次々と亡くなりました。亡くなった兵士たちの遺体がすぐに白骨と化したことから、その撤退路は「白骨街道」と呼ばれました。

インパール作戦を開始する以前、兵站が確保できないなどの理由から作戦実行を反対する意見が多かったそうです。しかし、司令官である牟田口中将は戦局の好転を期待する軍上層部に後押しされたこともあり、作戦を強引に推し進めました。

作戦は実行されたものの、兵站軽視の作戦のためやはり苦難の連続でした。前線の師団長たちはこの作戦のあまりの無謀さに作戦中止を進言しましたが、牟田口中将は彼らを次々と更迭し、その後も強行して作戦は進められました。

遂にはこの状況に激怒し、現状を考えてもう進軍は無理と判断した前線の師団長が独断で撤退を決めたほどでした。

インパール作戦では、約9万人の参加兵力に対し亡くなった兵士は3万人以上と言われています。

 💡 インパール作戦についてさらに知りたい方はこちら ➡ 崩壊する戦線(3)―白骨街道「インパール作戦」(概要)

 

地獄の戦場から生還された3名の元兵士

私は、この地獄の戦場から生還した3名の元兵士からお話しをお伺いしたことがあります。

当時、靖国神社の境内でカレンダーを販売しているテントがありました。私は来年のカレンダーが欲しかったので購入しに行ったところ、販売されている方々は陸軍や海軍の略帽を被っています。「私は個人的ではありますが、戦争のことを勉強しています。当時のお話しをお伺いできませんでしょうか?」と声をかけてみたところ、インパールから帰られた3名の方がお話ししてくださり、近くの偕行社で行われた誕生日会にも連れて行ってくださいました。

このインパール作戦から帰られた方々は、歩兵58連隊に所属されていたそうです。歩兵58連隊は私の出身地の連隊です。運命的なものを感じました。

 

インパールへ続く山また山の道

チンドウィン河を渡った兵士たちは一路インパールを目指しましたが、この行きの道から地獄のような毎日だったと言っていました。2000メートル超えの山々が連なり、「あー山越えたー!」と思うとまた巨人のような大きな山が現れ、山を越えても山が出てきて体力の消耗は尋常ではなかったそうです。重い荷物を担ぎ、食料は現地調達の毎日は若い兵士たちにも相当辛く、この時すでに体調に異変をきたす兵士もいたと言っていました。「戦争に行くというより、ものすごい登山を大人数でしてるみたいなものだった。山登るのに必死で、落ちる人もいた。」と言ってました。

戦闘のときは限られた武器弾薬で戦うため、とにかく撃ちまくる英軍に対して効果的に反撃していたそうです。ときには絶叫したり缶や木を叩いて、大勢いることを表現する威嚇行動のようなこともしたそうです。しかし、物量に勝る英軍にはならず、多くの戦友が戦死したと言っていました。

「俺たち若かったからできたけど、今はもう無理だね~」と談笑する姿は、辛い現実を乗り越えてきたからこそ言えることだと思いました。

 

本当の地獄は撤退が決まってからだった

コヒマの位置

やっとの思いでコヒマに到着したものの、みんな疲れ切って憔悴していたそうです。作戦は途中で中止になり撤退が決まりましたが、撤退路が一番地獄だったと言っていました。雨季になり、いつまでも止まない雨に空腹の体は一層衰弱したそうです。体力の限界で座り込む兵士は立つ気力がなく、多くの人がそのまま動かなくなったと言ってました。

「白骨街道と呼ばれた道は本当だったのでしょうか?」と聞いたところ、「それは本当だ。」と3名とも言っていました。「白骨街道は本当です。ときに戦友の遺体で足の踏み場がなく、遺体を踏んで進むしかなかった。心の中で”すまない!”といつも強く祈りながら進んだよ。」という言葉には本当に驚きを隠せませんでした。

食べるものがなく、次々と亡くなる兵士たちを目にする存命の兵士たちは、次第に亡くなった兵士が身に付けていた物を取るようになったそうです。「仏様になった戦友のリュックを漁り、あとは靴とか服とか使えそうならもらった。」と言っていました。

中でも一番困ったことはやはり食料調達の問題だったそうです。兵站を軽視した作戦は、確実に前線にいた若い兵士たちを苦しめました。「食べるものが本当になくて困った。いつもお腹が空いていて本当に辛かったね。ねずみとか蛇とか、取れる動物や食べられそうな草は何でも食べた。でもみんなが同じことをするから取りつくされてしまう。しまいには野辺に斃れる戦友の頬の肉を食べた。だから遺体はみんな頬の肉がえぐられてなくなっているんだ。」ということを聞いたときは、返す言葉が見つかりませんでした。

 

兵士たちの心を支えたブンガワンソロの歌

「助けてくれ」と道端で苦しむ戦友から言われても、自分も命からがら撤退しているため助けてあげることができなかったと言っていました。死と隣り合わせの毎日で唯一心の支えになったのは、ブンガワンソロの歌だったそうです。「我々には楽しみなんてなかった。慰安所なんていうものは戦後知ったよ。唯一楽しかったのは、誰がどこから知ったのか知らないけどブンガワンソロっていうフィリピンの歌をみんなで歌ったときだね。1人が歌いだすとみんな歌いだして、あれには本当に励まされた。」と言っていました。

ブンガワンソロは、ソロ川を歌ったインドネシアの歌です。私はこの歌を知っていたので、「それはインドネシアの歌ですよ。知っています!」と言ったところ、「珍しい!じゃあ歌いましょうか」と言ってみんなで歌うことになりました。ブンガワンソロを歌いながら遠い目をする3名は、ビルマの地から帰ることができなかった多くの戦友たちを思っているようでした。

 

命を軽んじた作戦


(c)太平洋戦争とは何だったのか

お話しをお伺いした3名のうち2名は無傷で生還できましたが、1人は戦闘で左耳を負傷し失聴したしたそうです。「生きているだけマシだよ」と言っていましたが、戦争で傷付きその後の人生に大きな影響を与えたことは事実です。3名は日本に復員してからも当時のことを夢に見たり、思い出したりして辛くなることが多かったと言っていました。

この作戦を進めた牟田口中将は、自身が亡くなるまでインパール作戦で亡くなった多くの兵士への謝罪の言葉を述べることはなかったそうです。NHKの「戦慄の記録インパール」(2017年8月15日放映)によれば、戦後しばらくは反省的なことを述べていたにも関わらず、イギリスのバーカー中佐から日本軍の健闘を称えるような内容の手紙をもらったことで自己弁護をするようになったとのことです。

私は、インパール作戦から帰られた方々からお話しをお伺いした中で一番強く感じたことは、犠牲者が出ることが前提の作戦で、なおかつ人命を軽視していた当時の軍上層部は、この時点で文明人とは言い難いのではないかということです。若い兵士が次々と傷付き大切な命を失うことを気に留めず、勝ち目のない作戦をいつまでも止めないプライドや、戦況の悪化を正直に伝えずマスコミに嘘をついて国民を巻き込む当時の国の体制に恐怖を感じました。その時代に生まれたばかりに時代の波に飲まれ、戦争で傷付き亡くなった多くの若者が不憫でなりません。

日本の歴史教科書は「○○年に何があった」ということを学ぶスタイルが多いですが、特に戦争についてはその出来事の背景をしっかり伝えたうえで「戦争はいけない」と教育した方が良いのではないかと思います。戦争は殺し合いで、傷付くのは机上で議論を交わす上層部ではなく前途有望な若者たちです。なぜ戦争がいけないのか、その言葉の意味も広く正しく認知されてほしいと思いました。

 

アイキャッチ画像:日本軍を撃退しに向かいインパール-コヒマ間の路上を進撃する、M3中戦車を伴ったグルカ兵

画像・写真:Wikimedia, public domain / Fumi



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  1. ピンバック: 崩壊する戦線(3)―白骨街道「インパール作戦」(概要) – 太平洋戦争とは何だったのか

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