焼夷爆弾で家を焼かれた-13歳が体験した「横浜大空襲」

LINEで送る
Pocket



今はカップルや家族連れでにぎわう横浜・山下公園。その前で、横浜港を見渡すように佇む風格あるホテル「ホテルニューグランド」の取締役 野村弘光さんは、悲惨な戦争を体験された一人です。野村さんの戦争体験を伺いました。


 

天秤かついで物を売りに来た1930年代の横浜

-はじめに、野村さんのお生まれについてお聞かせください。

1932(昭和7)年生まれの87歳です。横浜の本牧で育ちました。当時は漁師町で、漁船が20隻くらいいて、朝は焼玉エンジンのタッタッタッタッタという音で目が覚めるような町です。地引網でいわしを取っていて、「いっしょーや、にしょーや、みしょーや」という売り声と共に天秤でかついで売りに来るんですよ。その頃はいろんなものを天秤で売りに来ましたよ。薬、風鈴、豆腐屋…。

※当時よく用いられていた種類のエンジン。ガソリンエンジンやディーゼルエンジンと比べて単純な構造だった。

-今の横浜の様子からは想像できないです。

そうですね。目の前の海の魚を食べていましたしね。冬は海苔の時期で、対岸の千葉の富津から種を仕入れてきて、横浜で大きくして収穫していました。全員が漁師というわけでもなくて、日本鋼管や三菱重工などの企業に勤めていた人もいました。本牧は海がきれいだったから浜に外国人の別荘があって、夏になるとそこに外国人が来てました。外国人は珍しくなかったですよ。クラスにもハーフの人がいましたし。漁師町の中に洋館が混在していましたね。

【時代背景】

一見のどかに思える当時。しかし中国大陸では日本と中国の間で武力紛争が起きていました。1931(昭和6)年、中国大陸東北部に駐留していた日本陸軍の陰謀によって満州事変(柳条湖事件)が勃発。翌年(野村さんが生まれた年)、日本は「満州国」建国を宣言。その後も日本は軍事力を背景に中国で勢力を拡大。1937(昭和12)年、北京郊外の盧溝橋(ろこうきょう)で発生した中国軍との小競り合いをきっかけに、中国との全面戦争に入りました(日中戦争)。太平洋戦争が始まる4年以上前から、中国大陸では日本と中国との間で激しい戦争が行われていたのです。

 

戦争で物が足りなくなる―はだしで運動場を走った生徒も

-だんだんと戦争が近づいてくると思いますが、年が経ってきて様子は変わりましたか?

私は1939(昭和14)年、尋常小学校(今の小学校)に入学しました。2年後に「国民学校」という名前に変わりました。1941(昭和16)年に太平洋戦争がはじまると、様子が急に変わってきましたね。そのころから日常のものがだんだんなくなってきた。砂糖とか。デパートとかでもぜいたく品がなくなってきましたよ。日本が南方を攻めてボルネオ島などの島を占領し、ゴムの生産地を押さえると、戦勝記念でゴムまりが配られました。でも安物で、一発打ったら壊れちゃうようなものでしたけどね(笑)。5年生(1944年)くらいになると、そのゴムもなくなってきました。

運動靴は学校で配られるのですが、1クラスに20足か30足しか割り当てがこない。くじで外れるとはだしで運動場を走るんです。本当に物がなくなってきちゃった。お菓子類もだんだんなくなってきましたね。

収集した多くの資料を使って懇切丁寧に説明される野村さん

-はだしで運動場を走っていたなんて信じられないです。戦争に向かう教育や社会の雰囲気に対して、ご自身はどのように感じていましたか。

僕は軍事教練やなんかで、最後は竹槍だなんて言われて、よく友達と、「お前、竹槍なんか言って重機関銃でダーッとやられたら一発で死んじゃうじゃないか」なんて話してましたよ。だからあまり立派な兵隊にはならなかったと思いますね。

-その頃の食事はどうでしたか?

空襲の頃までは、白米ではないけど、七分づきっていうのかな、玄米よりは白米に近いお米をまだ食べていました。麦が混ざっていました。おかずはかぼちゃだとかなすだとか、魚ですね。焼け出される前は毎日三食食べていました。朝は味噌汁にご飯、それから納豆があったりしました。わらに入っているのを売りに来るのでそれを買っていました。豆腐は食べていましたよ。大豆はあったから。牛肉の良いのとか、バターとかはなくなりました。



日本本土初空襲「ドゥーリットル隊」爆撃機を見た

1942(昭和17)年4月に、ドゥーリットルという軍人に率いられたアメリカ軍の爆撃部隊が突如日本上空に現れたんですが、横浜上空にも来て、私は爆撃機の星のマーク(アメリカ軍機の特徴)を見ました。友人の弟は機長を見たと言っていました。それくらい屋根すれすれの低空で飛んでいましたよ。僕の友人はその機銃に当たって死んでしまいました。戦後ドゥーリットル隊のどの飛行機を見たのか調べたのですが、16機来たうちの6番機が横浜上空を通ったということが分かりました。

日本空襲前、空母甲板(かんぱん)上に並ぶドゥーリットル隊の爆撃機

💡 ドゥーリットル空襲の概要はこちら  ➡ 【概要】本土空襲

 

1944(昭和19)年になるとだんだん戦争の雲行きが怪しくなってきました。子どもたちが田舎に移り住む「疎開」が始まり、横浜の国民学校生徒は箱根の旅館に疎開させてもらいました(学童疎開)。僕は叔母が沼津にいたから、その縁を頼って疎開(縁故疎開)し、妹と一緒に国民学校に通いました。

中学校受験があったので、沼津からその年の10月に帰ってきました。横浜市立第三中(今の県立緑ヶ丘高校)です。3月に試験を受けて合格しました。

 

入学してすぐに中学校が焼けてしまった「横浜大空襲」

-終戦が近づいてくる頃ですが、どんな中学校生活だったのでしょうか?

中学校では、3、4年生(当時の中学校は5年制)は勤労動員※1で工場に出かけ、1、2年生と体の具合を悪くしている上級生だけが学校にいて下級生の面倒を見ていました。毎朝上級生が来て軍人勅諭(ぐんじんちょくゆ)※2を音読しました。配属将校(各学校に配属されている軍人)が横に立っているんです。ある時、上級生に舌足らずの人がいて、読んでいる時に笑ってしまった。そうしたら、その配属将校に「今笑った者全員グランド一周!」と言われましたよ(笑)。ビンタは食らわなかったですけどね。

※1 勤労動員…戦争で足りなくなった労働力の不足を補うため、中学校以上の生徒が工場や農場などで働くこと。

※2軍人勅諭…軍人の心構えを記した天皇の言葉。全文および現代語訳はこちらのリンクから「軍人勅諭(陸海軍軍人に賜はりたる勅諭)

-なるほど。やはり厳しかったんですね。空襲は経験されましたか?

東京は1944(昭和19)年11月に初めて本格的な空襲を受けたんですが、私がいた横浜では、翌年の5月29日に大規模な空襲に遭いました。それで私の家も学校も焼けてしまいました。4月に入学したのに5月にはやられちゃったんです。

緑が丘は山の上なので、高射砲陣地がたくさんありました。講堂には兵舎ができるまで兵隊さんがたくさん寝泊まりしていたんです。なので敵の攻撃のターゲットになり、真っ先にやられちゃった。

 

次は  ➡  焼夷爆弾(しょういばくだん)が家に直撃

 





スポンサーリンク