【体験談】回天特攻訓練を受けた兵士の自分史

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予科練に志願

私は大正十五(一九二六)年十一月四日佐賀県杵島郡白石町に男五人女三人兄姉弟の四男として生まれました。父は身体が弱かったので農家の畑仕事には向かないと、旧制熊本第五高等学校から東京帝国大学を卒業して教員となりました。

「男の子は兵隊さん。女の子は看護婦さん」という時代でしたので、旧制佐賀県立鹿島中学四年生の時に陸軍士官学校を受験しましたが回答を二問間違えましたので落ちてしまいました。十六歳になった昭和十八年十一月、軍歌「若鷲の歌」にある『七つボタンは櫻に錨』(注①)に憧れて、海軍第十三期甲種飛行予科練習生(予科練)に志願しました。佐世保海軍基地で受験、適性検査、体格検査とも見事合格。歓呼の声と日の丸の旗に送られて故郷の駅を出発、三重海軍航空隊奈良分遣隊に入隊しました。

隊内での移動はすべて駆け足、歩くことは許されませんでした。辛かったのはモールス信号の受信で、欠落三字出すとバッタ(軍人精神注入棒)と呼ばれる樫の棒で、間達えた数だけ尻を打たれて尻が真っ赤になり、便所でしゃがむ時の激痛が忘れられません。

予科練の課程も一年で終了し、次の課程である実践部隊(飛行練習隊)へ派遣される直前、昭和十九年八月一万二千名の練習生が集められました。隊長が「戦局はますます厳しくなってきた。この戦局を挽回させるには新兵器が必要となり、我が海軍が開発した、特殊兵器は挺身肉薄一撃必殺を期するものにしてその性能上特に危険を伴うもので、この中から搭乗員百名を選抜する。希望するものは名前の上に◎をつけること」と言われました。私は飛練に入隊しても、赤トンボ(旧日本陸軍
の複葉機「九五式一型中間練習機」)まで特攻隊に出撃していると聞き、それなら新兵器のほうが面白いと思って◎をつけました。選考基準は意志強固、機敵性、融通性、家族編成が長男以外のことなどであったようです。

 

回天搭乗員に

奈良分遣隊から広島県大竹市の呉海兵団大竹対潜学校で座学を受け、人間魚雷『回天』の発祥地、山口県周南市(旧・徳山市)の大津基地に派遣され、上陸するやいなや『回天』が目の前に横たわっていました。

先任将校の訓示曰く「お前たちは幸せ者だ。一機一億円もする棺桶に入れるのだからだ。」と。当然予科練生には兵器の値段は分かりませんし、現在の貨幣価値から考えるとべらぼうな金額になると思いますが、そんなに高価なのかなと当時はそのまま信じていました。

『回天』は九三式無航跡酸素魚雷を改造したもので、敵艦に体当たりして自らの命と引き換えに戦果を得る、命中すれば空母も撃沈させる威力があります。動力は液体酸素と石油、内部からのハッチは開閉不能、特眼鏡(潜望鏡)あり、伊号丁型伊三七〇潜水艦の甲板に固定されます。最高航行速度三〇ノット、航続距離二十三キロメートルです。魚雷は潜水艦長が潜望鏡を使って敵目標艦に向う方向と距離を観測して発射しますが、観測に誤差があれば不発となります。しかし、回天は人力操縦と特眼鏡で運航しますので、万が一敵目標艦を外しても、縦舵を使って三六〇度回転し二回、三回と観測を繰り返して敵艦に激突します。命中率は潜水艦よりも確率は高くなる兵器です。

山口県光市の光基地で「停泊艦攻撃」「巡航艦攻撃」の訓練開始。呉海軍工廠魚雷調整工場から運んできたクレーンで海中に降ろされ、追躡(ついしょう)艇(訓練で発射された回天の追跡・回収を行う)の横腹に抱きかかえながら目的地に達着、追躡艇より回天に乗り移り、ハッチを開けて搭乗、追躡艇の合図により発動桿を引くと時速五十六㎞のスピードで発射、水深十㍍位、目標の島との距離を推測して特眼鏡を挙げ距離を観測して縦舵、横舵を操縦して、方向と深度を調整して運航します。島をぐるりと廻り基地にまで帰途します。追躡艇には四、五人の訓練搭乗員が乗船しています。追躡艇の指揮官は、回天が航法を誤り岩や陸岸に向かって水中を突進するなど、操縦に危験を感じたときは「発音弾」を海に投下します。小型ですが、少し沈下してから爆発すると、その音が潜航している回天によく聞こえます。操縦者は直ちに速力を落として浮上し、危険を回避するのです。

訓練終了後の夜は一室に集められ、その日の搭乗訓練の全部について、搭乗者本人から経過報告、追躡艇指揮官の補足と批評、先任搭乗員の意見、続いて質疑応答があり、各訓練搭乗員の自覚をうながしていました。

夕食後は酒保(軍隊の営内にあった、飲食物の売店)からデザートや甘いものが配給されます。ある日ミカンが山盛りに配られたので事情を聞くと訓練搭乗員のひとりが、民間のミカン運搬船と衝突し、沈没させたので積み荷のミカンを水揚げしたとのことでした。私が追躡艇に乗船していたとき、発煙筒が投げられたことがありました。前方の海中を走っていた回天の航跡が急に見えなくなったので、本部に
無線で連絡すると、救助艇が駆けつけ水中に潜行して救助活動をしましたが、回天の頭部が海底に突き刺さっていました。回天は魚雷のエンジンとスクリューで推進しますので、スクリューを逆転することが不可能ですので後戻りが出来ません。救助に時間がかかり、訓練搭乗員は酸欠で死亡していました。(注②)またある訓練搭乗員は特眼鏡を引っ込めずに航行中の船底に激突してハッチが開かなくなってやはり酸欠で殉職したこともありました。

毎日二十基の回天がクレーンで降ろされて訓練しましたが、その内二基か三基は事故で死亡が確認されていました。特攻新兵器として開発されただけに犠牲者も出ましたが、そのことに動揺はせず、戦局が厳しい中、一日も早く出撃すべく毎日訓練に励みました。

以後、山口県熊毛郡平生町の平生基地に配属されました。

搭乗員は秘密を漏れないようにと外出が許可されていませんが、出撃直前になると「錨」のマークが付いた「衛生サック」を渡され、遊郭に行って遊んできなさいと言われました。私は禁断の実を食べたら出撃の気持ちが削がれると思い辞退しました。海軍は変なところに親心を出すもんだと思いましたが、恋人も居ましたので童貞を守りました。(敗戦後、恋人と逢ったら、中学校の二年先輩と既に結婚していました。)

菊水隊として出撃したが、回天の故障で帰還した戦友からこんな話を聞かされました。潜水艦長が、基地司令部に「第一回天、◯◯上飛曹(上等飛行兵曹)米ルイジアナ型巡洋艦轟沈!。第三回天◯◯上飛曹自爆!」という報告がなされているのを聞き、二、三分前まで艦内で世間話をしていた戦友が「撃沈」「自爆」と聞いたときの心境は、潔く死ぬことを決意していても例えようがないと漏らしていました。

回天が不発の場合は、敵に回収されて機密が漏れるのを恐れて全員自爆せよと教育されていました。母艦の艦長は、発射から敵艦への到達時間を見ながら爆発音の大きさで「轟沈」と「自爆」を判断して司令部に報告する決まりになっていました。

その後、大分県速見郡日出町大神基地と移り、第二特攻隊所属「大神突撃隊」となりました。

出撃は伊号大型潜水艦の甲板に六基乗せて出撃します。出撃回数は三十二回、搭乗員は一〇四名(注③)。私の部屋も六個のハンモックが吊されてあり、四人は出撃し、次回は私達二人だと出撃を待っていました。その時考えていたのは、死後は「地獄」と「極楽」があるが、お国のために命を落とすのだから「極楽」に行けると自分なりに悟っていました。

その頃、海軍の潜水艦は米軍の爆雷攻撃で殆どが撃沈されて、回天を乗せることが出来なくなりました。沖縄県にも米軍が上陸したので、本土にも上陸することを想定し、敵の艦砲射撃にも耐える海岸近くの丘に高さ二㍍奥行き三〇㍍の地下格納壕を掘り、レールの上に回天を取付けました。この工事では多くの朝鮮人労務者が働かされていました。私のような若造が年上に言い辛いけどお国のためだと自ら言い聞かせて、五十から八十歳位の朝鮮人三人をこき使ってきました。米軍上陸用舟艇が襲来すれば搭乗員が直ちに乗り込み、レールを走って海中に潜行し「特攻」するようにと命令され、次回は私達と覚悟して毎日待機していました。

八月十五日の玉音放送は聴きませんでしたが、上官から戦争は終わったから搭乗員は戦犯になるかも知れないので一足早く故郷に帰れと復員命令が出ました。ところが基地内で「ポン、ポン」と銃声が聞こえますので上官に来てみると、戦友が、ピストルで自害をした聞かされました。歓呼の声で送り出された故郷には「ニッポン男子」として生きて帰れないのか、天皇陛下に申し訳ないと思ったのか分かりませんが、復員命令が出されてから自害をしたことを、もし親が聞かされたら、何で馬鹿なことをしたんだのだろうと嘆かれたと思います。私は父親が教員を止めて、一人で農業をやっていましたので復員して手伝おうと白石町に帰郷しました。

十八歳の夏のことでした。

 

敗戦で帰郷、そして共産党を知る

大神基地より帰郷。佐賀県白石町の父母や兄弟姉と久し振りの面会でした。兄貴は歯科大学を卒業して近くで歯科医院を開業していましたが、その兄貴が学生時代社会主義研究会にて共産主義を勉強したとかで、私に今度の大戦は日本軍国主義の侵略戦争で日本共産党は全面的に反対していた、治安維持法で一八年間も投獄されていたと話を聞かされてビックリしました。

私は海軍服役中に毎月給料を貯金していたの、その通帳毎、代々木の共産党本部にカンパしました。そしたら本部から連絡があり、直ぐに日本共産青年同盟(現日本民主青年同盟)に加盟しなさいと勧められて、加盟しました。

昭和三十四年上京し、世田谷区上北沢三丁目で水道工事店を開業しました。直ぐ、日本共産党世田谷地区委員会上北沢居住細胞(現・居住支部)に入党し、日刊アカハタ新聞(現・しんぶん赤旗)を配達しました。徳田球一、津金祐近、梅津四郎、三田忠英、門田昌子、田副民夫、笹尾とし、里吉ゆみ、たかじょう訓子の選挙対策本部で活動し、各議員の当選のために頑張ってきました。

いま、安倍政権が憲法九条の解釈をねじ曲げて「戦争法案」を国会に提出していますが、私は予科練で教官から教えてもらったことを思い出しました。それは海軍陸戦隊(現在の米軍海兵隊と同じく上陸部隊)が敵地に上陸する時は、植民地の台湾人、朝鮮人の兵隊を先に上陸させて「弾よけ」にしました。彼らに「鉄砲の弾は前からだけではないぞ。後ろからも弾が飛んでくるぞ」と脅かしたそうです。

アメリカは志願制ですから兵隊を集めにくいので、戦場では自衛隊員を「弾よけ」にするために「集団的自衛権」でアメリカに協力するのではないかと考えています。こんな法案は絶対に反対です。毎月九の日には、「憲法九条を愛する烏山の会」の方々と一緒に街頭宣伝をしていますが、回天搭乗員の体験を若い人に「七十年目の伝言」を聞いてもらいたいと「自分史」を編纂しました。海の藻くずと散った若い百四十名の回天特攻隊員の冥福を祈るとともに、生き残った私は、先の大戦で亡くなった日本人とアジアの人々の尊い命を犬死にさせないため、恒久平和のための人柱になりたいと思います。

著者 田中直俊(たなかなおとし)氏

 

若鷲の歌

作詞 西條八十 作曲 古関裕而

一、若い血潮の予科練の
七つボタンは櫻に錨
今日も飛ぶ飛ぶ霞ヶ浦にゃ
でっかい希望の雲が湧く

二、燃える元気な予科練の
腕はくろがね心は火玉
きっと巣立てば荒海超えて
行くぞ敵陣なぐり込み

四、生命惜しまぬ予科練の
意気の翼は勝利の翼
見事轟沈した敵艦を
母へ写真で送りたい

(歌詞出典:J-Lyric.net 若鷲の歌

音声はこちらからお聴きください Youtube「若鷲の歌」検索結果

 

注釈:

(注①)「若鷲の歌」予科練を募集するための宣伝目的で作られた戦意高揚映画『決戦の大空へ』の主題歌。日蓄レコードより発売され大ヒットした。

(注②)市川海老蔵主演の映画「出口のない海」はこの事故がモデルかも知れません。海老蔵が扮する主人公並木浩二が海底に突っ込んで殉職するストーリー。

(注③)【参考文献】光人社文庫小島光造著「回天特攻・人間魚雷の徹底研究」

 

 



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