【 通州事件ご遺族より・平和への願い 】

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笠原十九司先生が授業の中で取り上げていらっしゃった通州事件ご遺族のエピソードを、もっとよく知りたいと先生にお願いしてご本人に連絡を取り、2018年4月に発行されたばかりの小冊子を送っていただきました。

『平和の大切さを多くの人に伝えたい』という願いから、history for peace のウェブサイトへの転載のご許可を頂くことができましたので、ここに全文を公開します。



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= いとしい者達に言いのこしたい =

文・絵   櫛渕 久子

日本は1894年に日清戦争で今の中国と戦って台湾を手に入れました。そして朝鮮半島から清国を追い出し、ロシアと戦って満州からロシアを追い出しました。

1910年には韓国を併合して朝鮮半島を植民地にし、1931年9月満州事変を起こしました。これが日中十五年戦争の始まりです。1932年には満州を植民地にしました。さらに1937年7月には盧溝橋事件をきっかけに日中前面戦争に突入し、日本軍は、殺しつくし、焼き尽くし、奪い尽くすなど、国際法に違反する戦争犯罪を犯しました。そして1941年には、ハワイを奇襲攻撃してアジア太平洋戦争を始めました。つまり51年もの長い間、戦争状態にあったのです。人々は貧乏だというのに、戦艦大和を始め高価な戦艦や航空母艦や、零戦を始め沢山の飛行機を作ったり潜水艦を作ったりしたのです。百姓の中には娘を売る人さえありました。

これ程までひどいみじめな目を国民に押しつけておいて作った、例えば戦艦大和は「おとり」として使われて沈められ、今も海の底です。あの世界にほこる(・・・)と言われた戦艦大和がです。おとりの役しか立たなかったというのです。

戦争に使う兵器は、例えばイージス艦は一隻で1734億円、イージス艦に比べたらメチャクチャ安いオスプレイさえ一機112億円で、保育所なら100も作れます。しかも兵器は絶えず新しいのに買い替えないと、すぐ古くなって戦艦大和のように役立たずになってしまうのです。こんなバカげたお金のつかいようってあるでしょうか!今の若者達に結婚もできないし子どもも産めないような生活を押しつけておいて、在日米軍への思いやり予算はナント1920億円です。

人を殺すことにしか使えない兵器を作ったり売ったりするお金と労力と知恵があったら、自然エネルギーや農業や教育や・・・数えたらきりもない程人類を平和に豊かに暮らせる方法に力を注いだらいいんです。自衛隊を軍隊にさせるなどと、一体今の政府は何をたくらんでいるのでしょう。

でも私達は、銃から平和が生まれたためしがないことを百も承知しています。銃をふりかざして、平和のためとか、自衛のためとか言って人を戦争にかり立てた歴史を知っています。

私達は兵器に頼らないで平和をつくり出す道をこそ選び育てていきましょう!

通州事件 -1937年-

このお話は今から79年前、日本が中国を侵略した戦争のごく始めに実際にあった話です。そのとき偶然生き残った者の一人が、重たい口を開けて語り、そして画いた記録です。

1937年7月29日、日中戦争が始まった22日後、北京から20キロ程離れた通州の町で、中国警察の保安隊が一斉に蜂起して通州に住む日本人や朝鮮人の家を襲いました。そして200数十人の女性や子供を含む人々をしばりあげ、数珠つなぎにして郊外に連れ出し、虐殺しました。その中に軍医だった私の父、看護婦だった母、まだ二歳になったばかりの妹も居りました。記録写真によりますと、私の父は他の人同様に体中を撲られ脚の骨が折れてズボンが脱げ、お腹は太鼓のようにはれ上がって、脇腹から血が流れだし、あごがはずれてしまったのでしょう、大きく口をあんぐりとあけてひっくり返っていました。顔は「氏名が判っているので・・・」と書き添えられて黒い布がかぶせてありました。

母は他の妊婦さんと同じようにお腹が裂けて、小さな小さな赤ちゃんが流れ出していたそうです。

妹もまた他の赤ん坊と同じように、土べたに叩きつけられ屋根に放り上げられて形さえなかったといいます。

私はその時九歳。日本の母の家に居たために助かり、すぐ下の妹は、私の父や母の下で働いていた中国の看護婦さんの可鳳岐(かほうき)さんに助けられて九死に一生を得ました。

可鳳岐さんは保安隊の手から妹を奪い返して下さいました。彼女は「私の娘です。この子は私の子です。連れ去らないで下さい。返して下さい」と叫び続けたのでした。もし妹が日本人の子だと分かったら、可鳳岐さんは無事ではいられなかったことでしょう。日本人と同じようにじゅずつなぎにされてひっ立てられ、虐殺された中には、朝鮮の人々も居ましたし、何より通州の町では日本の傀儡として働いていたという理由で市長にあたる殷汝耕(イールーゴン)さえ人質として縄でしばられて引っ立てられたのです。
可鳳岐さんは妹を抱きかかえてコウリャン畑に逃げこみ、そのなかに身を潜めて何日かを過ごし、様々なご苦労の末に日本側に妹を手渡して下さったのでした。

戦後、妹と私は様々な手をつくして可鳳岐さんを探しました。けれど可鳳岐さんの行方はまるっきり判りませんでした。ただ事件の一年後、可鳳岐さんから私宛にお便りがありました。その中に「私は満州の私の家に戻りました。周りの人々から『日本人のスパイ』という辛い言葉をあびせかけられています。私にはあなたのご家族との沢山の思い出がありますが、私の家族にはそれがありません。家族につらい思いをさせています。でもいつかきっといい日が来ます。その日が来たらきっと又私たちは会えます。」とありました。
この通州の虐殺事件の後、母方の祖母は半年もたたない内に死に、祖父はその一年後に急に倒れて寝たきりになってしまいました。
私はどれ程この虐殺事件を憎み、中国の保安隊を憎悪したことでしょう。
両親や妹の死に様(ざま)を思い浮かべる度に、腹わたが煮えくり返るような悲しみと憎しみに長い長い間心をむしばまれて過ごしてきました。
でも可鳳岐さんがいて下さったから、中国人の可鳳岐さんが居て下さったからこそ、今こうして憎むべきものは戦争だ、という思いに到達できたのだと思っています。
日本の政治家や思想家の中には、日中戦争も第二次世界大戦も日本の自衛戦争であり、アジア民族の解放戦争だったと主張する人が居ます。
その人々は「通州の虐殺事件が南京の虐殺事件につながった。
最初に、虐殺行為を中国側がしたからこそ『通州の恨みを晴らせ』と日本軍が叫んで南京の虐殺につながった」と唱える人々が居ます。それは正しくありません。
歴史を自分の都合のいい所で切ってくっつけては駄目です。それを言うなら、通州の保安隊員の中には、1936年に日本政府が「満州百万戸移住二十年計画」で日本開拓民を満州に送り込み、中国の農地を安い値段で取り上げた時、家も土地も失った者たちが居たことを忘れては駄目です。いや、それ以前にも、日露戦争の後満州を植民地にした日本は、満州とシベリアの国境添いに広大な無人地域にしてそこに基地を作ったのです。その時、沢山の中国農民が家も土地も安値で奪われました。いいえもっとそれ以前の日清戦争の時に、敗走する清国軍を追って旅順まで攻め込んだ日本軍は、旅順の老若男女をじゅずつなぎにして郊外に連れ出して虐殺しているのです。死体が埋められた跡が、今も残っていて語り継がれているのです。それだけではありません。安い賃金と重労働と、虐待に近い仕打ちで命を縮めた中国の炭鉱夫もいたし、チャンコロと呼ばれたり、ボーイと呼ばれて働かされた人々も居ました。

1932年9月中国の抗日ゲリラが日本の国策会社の南満州鉄道会社が経営していた撫順炭鉱の事務所を襲いました。撫順炭鉱には日本の関東軍が駐屯していましたが、襲撃を防ぎしれず五人の死者や七人の負傷者を出しました。抗日ゲリラからみれば、その頃世界でもトップクラスの撫順の炭鉱は中国のもの、自分たちの炭鉱なのです。でも関東軍は報復と見せしめの為にゲリラをかばったという理由で平頂山村の住民を平頂山の崖下に追い立てるとお年寄りや子供を含めた三千人余りを機関銃で撃ち殺し生き残った者は銃で突き刺してとどめを刺し、更にガソリンをかけて焼き殺した上、ダイナマイトで崖を崩して埋め尽くしてしまいました。更に村には火を放って村ごと村民ごと消してしまったのでした。通州事件の五年前の事でした。
通州の保安隊員の中には、腹わたが煮えくり返るような思いで、土地を返せ、家を返せ、家族を返せと叫びながら虐殺に走った人も居た筈です。
私は15歳の時(1943年)、父方の祖父に連れられて当事東京に住んでいた殷汝耕を訪ねたことがあります。
彼は広々とした屋敷に、第二夫人にあたる日本人妻と共に暮らしていました。保安隊員に拉致された直後、彼は日本軍に救出されたのでした。
日本人妻と言われた人は、地味な和服を着た上品な感じの人でした。彼女に案内された和室で祖父と二人で待っていると殷汝耕が衣擦れの音をさせて静かに入ってきました。顔立ちのしっかりした知的な感じの人でした。
私は祖父と殷汝耕がどんな話をしたか全く覚えていません。彼は日本の早稲田大学を出た人ですから、日本語が達者だった筈です。
彼は、私が彼を観察していたように私にじっと目を据えて見つめていました。彼はあの時一体何を考えていたのでしょう。戦後彼は中国に呼び戻され「売国奴」として処刑されました。その直前「私は中国の為にも力をつくしたつもりだ。例えばアヘンの売り上げ金のすべてを、日本の命じるままに日本に渡していた訳ではない。その一部分は中国側にこっそり渡していた。日本のきびしい監視の中で」と言ったそうです。まあ、何と情けないことしか言えなかったのでしょう。
通州の保安隊の前身は、中国の人々からも嫌がられる、いわば馬賊という盗賊集団だったと書いてある歴史書がありますが、散々中国の要人に断られたあげく、通州の主席を殷汝耕にするしかなかったという記録も案外真実かもしれません。日本軍について来る者たちに立派な人はいなかったのです。逆に言えば、これらの人と組んでしか日本の中国侵略は行えなかったのです。
殷汝耕を囲んで「冀東防共自治政府の要人たち」という一の写真があります。
殷は中国服を着ていますが「要人」と言われる人は皆ネクタイに白いワイシャツと背広という日本のお役人スタイルです。この写真一枚でも殷の立場がはっきりと判ります。
通州一帯はまちがいなく第二の満州なのでした。北京からたった10キロほどの町です。そこには日本の機械化部隊が駐屯し、沢山の武器弾薬が貯蔵されていました。
日本は通州一帯から中国の軍隊を追い出して中立地帯とし、日本軍を駐屯させて空から飛行機でパトロールしていました。中国軍が入り込んでいないかどうか看視していたのです。保安隊は軍隊ではありません。警察隊なのです。しかも通州の保安隊は殷汝耕直属の警察でした。その日本のために働いていた保安隊舎を何故か日本空軍が爆撃して死傷者を出したのでした。日本側は「誤爆だった」と言い張りましたが、本当に誤爆だったのでしょうか?
私は今でも疑っています。戦争を拡大させようと考えていた関東軍や北支軍の一部が企んだことではなかったか、と。通州事件には尾ひれがついて大々的に新聞やラジオが「通州の仇を討て」とか「日本居留民の生命財産を守れ」とか宣伝しまくりました。そして、折角中国の軍隊と現地の日本軍の間で和平が実現しそうになったのをブチこわしてしまったのです。
つまり鎮火しそうになった戦況の火に油を注いだ形となってしまったのでした。そして盧溝橋の数発の銃弾が日中戦争を引き起こし、第二次大戦を勃発させ、地球を滅亡させかねない原爆や水爆を産み出し、沢山の人命を奪ってからやっと終わったのでした。
関東軍や北支軍の一部には「戦争はわが軍の一撃で終る。満州だけでは資源が足りない、北支には鉱物など重要な物資が眠っている」と唱える者がいたのです。
歴史家や有名なジャーナリストの中にさえ、日中戦争や独ソ戦は帝国主義の時代の産物であって、何も日本だけが悪いのではない、歴史はそのようにして進んできたのだ、という人が居ます。
その様な考えに基づいたら第二次世界大戦でさえ「どうしようもなかったこと」としか捉えられないでしょう。しかし日中戦争が行きづまったからこそ日本は南方へ軍隊を進め、アメリカに戦争を仕かけたのです。中国の支援ルートを断ち切り南方の石油や鉱物資源を手に入れる為に…。
それを愚かにも日本は日中戦争だけで止めておけばよかった。アメリカみたいな強国に手を出したから負けてしまった、などと本気で書いている歴史学者さえいるのです。
こんな浅はかな考えで「平和」の問題は考えられません。私たちは今こそ「平和」を創り出す力を、人類のすべての力をあげて育てないと人類は生き残っていけなくなると私は思っています。戦争なんかしている場合か!です。異常気象で海がこわれ、気候が狂い、やがて日本の夏が40度になるのも時間の問題だという気象学者さんたちもいるのに…です。
皆さんはどうお考えでしょう?

= 小冊子・背表紙 =

 

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※ 縦書きでしるされているものを横書きに打ち込むに当たり、年代表記等、一部の漢数字をアラビア数字で記載しました。

※ 小冊子は、まとめて送っていただきましたので、history for peace のイベントなどにご参加いただいた方へ配布します。

2018.07.25 zazou

 

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