私はこれまで、戦争体験の継承、戦後補償問題、そして戦争犠牲者の慰霊を、主な活動としてきました。今後は、これらに携わりながらも、現在の安全保障をメインテーマにしていきます。どんな安全保障か。私が追究したいのは、「軍事力に依存しない安全保障の実現」です。手始めとして、ネットでの発信やイベントを行っていきたいと思います。
その理由を以下に書きます。長いのですが、お付き合い頂ければ幸いです。
戦争体験者の方たちのことばに応えたい
これまで、戦争を体験された多くの方にお話を聞いてきました。体験者の方たちは、「戦争は二度と起こしてはいけない」とお話しされることがよくあります。私も、本当にそのとおりだと感じます。しかし、現実の世界では第二次世界大戦後も世界中のいたる所で戦争は起き続け、今は日本も周辺国の「脅威」に対抗するため、急激に軍拡を進めています。緊張が高まれば、戦争はちょっとしたきっかけで始まってしまうこともあります。今はまさにその潜在的な戦争リスクがとても高い状況と言えます。
「力には力を」は日本を衰退へ導く
戦争を回避するための努力と言えば、「いかに自衛隊を強くするか(防衛費を増額するか)」「米軍をはじめとした関係国との軍事的連携を強めるか」という2点ばかりが取り沙汰されているように感じます。いずれも、力には力で対抗する、というロジックです。それらも現実的には必要なことは理解できます。しかし、そればかり考えていては、日本に未来はないのではないでしょうか。なぜなら、日本の仮想敵とされる中国の軍事費は、今や日本の7倍(2022年度)もあります。そしてその差は今後も広がるばかりです。日本は世界最強の米軍と同盟関係にあるとはいえ、米軍は世界中に軍を駐留させていて、東アジアは数ある地域のひとつに過ぎません。そしてアメリカは日本に軍事費の肩代わりをさせる傾向を強め、日本国民の税金はどんどんアメリカの軍事産業に流れています。急激に強化されていく中国の軍事力に少しでも追いつけとばかり、防衛費をどんどん高めていく。それはどこまで行ってもゴールにたどりつけないどころか、ゴールが遠ざかっていく底なし沼そのものです。その結果には何が待っているでしょうか? 火を見るよりも明らかなのは、「失われた30年」を経て先進国から転落間近な日本の、さらなる経済的弱体化と社会の貧困化です。そこに、日本の明るい未来など、どのように描けるでしょうか?
軍備に税金をより多く投入することは、他の社会政策に投入するお金が少なくなることを意味します。いまや日本の軍事支出は、教育・科学技術振興のための支出を超えました。日本の未来を担う人材を育成する教育や、企業の競争力を高め、次の産業を創出する科学技術の発展のために使うお金よりも、それ自体は何も生み出すことのない軍事費へ使うお金の方が多いのです。さらに、政府はこれまで禁止していた兵器などの軍事物資の輸出を可能にし、国内の軍事産業を活性化させています。稼げなくなった日本企業が、税金がどんどん投入される軍事産業で稼いでいけば、日本の経済は軍事に依存する傾向が強まります。その結果、心の底では常に世界のどこかで戦争が起きていることを望むようになるでしょう。つまり、日本が今取っているコースを続ける限り、私たちは永遠に戦争から離れることはできず、常に戦争のリスクを感じながら毎日を生きることになります。そして、軍事力強化によって戦争を回避しようとし続ければ、隣国との軍事的緊張が高まり、いずれ私たちの日本は必ず再び戦争の当事者になります。これまで戦争で命を落とした多くの人たちと同じ運命を、私たちか、私たちの子や孫は再び体験することになるのです。
「軍事力に依存しない安全保障」と「軍隊の全廃」
ではどうすればよいのか。私は、軍事力に依存しない安全保障の確立が必要だと思います。安全保障政策に占める軍事力のウェイトを徐々に落としていくのです。そのためには、これまで人類が培った紛争を予防する知恵を総動員するとともに、さらにブラッシュアップしていくことが求められています。私は、これから、その「軍事力に依存しない安全保障」のあり方を追究することを活動の主軸にしていきます。
「軍事力に依存しない安全保障」を突き詰めていけば、「軍隊を地球上からなくす」ことに行きつきます。なぜなら、安全保障を軍事力に依存しないのであれば、そもそも軍隊は必要なくなりますし、軍隊はただ維持するだけでも膨大な額の税金を吸い続ける一方で、プラスの要素はほとんど何も生み出さないからです。また、軍隊の存在自体が軍事的緊張を高めることがしばしばあること、軍隊を支える軍需産業は戦争や軍事的緊張を欲するものですから、軍隊は必要がないのであれば、ない方が良いのです。
そのような考えから、「世界から軍隊をなくす」。私はこのために生きていくことにしました。これが達成された時、「戦争は二度と起こしてはいけません」という戦争体験者の言葉がやっと実現します。
「賢さ」の落とし穴
「軍隊をなくすとか、戦争をなくすとか、理想主義に過ぎず実現不可能だ」と、「歴史をよく知っている」人ほどそう言います。たしかに、歴史を素直に見返せば、人類の数千年の歴史は戦争の歴史と言っても過言ではないほど次から次に戦争を繰り返してきました。文明の歴史は常に暴力と共にあり、人間は暴力から永遠に解き放たれることはない、だから、暴力から身を守るために、軍隊は絶対必要なのだ――そのように「賢い」人たちは言います。しかし、だからと言って、これからの未来も同様であると決めつけ、人類が軍備を手放すことを最初からあきらめてしまえば、先にも述べたように、これからも戦争によって多くの人が傷つき、街が破壊されることは決定づけられてしまいます。そして、膨大な軍事支出によって福祉、教育、インフラ整備などに本来回すべきはずのお金は圧迫され、社会環境の改善は阻害され続けるでしょう。
私は、「戦争をなくすことなんてできるわけがない」と決めつけ、軍備を拡張しながら戦争回避を続けるよりも、軍事力に依存しない安全保障のあり方を模索したい。馬鹿だと言われても、お花畑だと言われても、どのようにしたらそれを実現できるのか、そのことを考え行動する方が、現状を肯定し戦争のある未来を受け入れて過ごすよりも、よっぽど前向きで、ワクワクする生き方だと思います。人類に叡智というものがもしあるならば、どのように敵を効率的効果的に殲滅するのかに必死になるのではなく、殺し合いをなくすことにこそその知力を使うべきであり、そしてそれは必ず成し遂げられるはずです。なぜなら、戦争はどうやっても止めることのできない嵐や地震や火山の噴火ではなく、人間が意志を持って行う行為だからです。自分たちが行う行為を、なぜ「絶対に止められない」と決めつけるのでしょうか? ホモサピエンスの本性に根深く潜む暴力性を、うまくコントロールして、暴力を抜きにして社会生活をまっとうできるようにする。それを達成してこそ、人類が真に成長したと言える時だと思います。そしてこれは、いつかかならず達成できるという確信が私にはあります。
軍隊は本来なくてよいもの
多くの人が戦争は非人道的で、非合理的な行いであると考えているはずです。また、自分や家族や大切な人が、砲弾によって傷ついたり、亡くなったりすることを望む人がいるでしょうか。つまり、戦争は本質的に大部分の世界の人にとって受け入れがたいものです。ということは、戦争の道具である軍隊も、本来であれば必要がないはずのものです。したがって、「軍隊をなくす」ということは、ひとたびコンセンサスが形成され始めれば、雪崩のようにその方向に世界は動き出すでしょう。私がこのことを「絶対にできる」と確信する理由は、人々が本心では強く望んでいることだからです。
軍隊をなくすということについては、日本人は本来想像がしやすいはずだと思います。私たちの社会は、銃の保持が厳しく規制されています。自分たちで武装して自らの身を守るという社会ではなく、暴力に対しては警察が対応します。そして国内的には、警察が抑えられない暴力というのはほぼ存在しましません。この国内の状況を世界に反映させて、一人ひとりの人を一国一国と考えれば、軍隊(=銃による武装)が不要な社会を創ることは、絶対に無理なことではないことが想像できるはずです。
もちろん、国や地域によって不安定さにはばらつきがあります。日本国内の状況をすぐに世界にあてはめることに無理があることは百も承知です。しかし、現実に銃などの武器を保持しなくともそれなりに安全に暮らすことができている毎日を体感していることは、世界でも同様のことを達成できると想像する手掛かりになるはずです。
「あたりまえ」はひっくり返る
それでも、「軍隊をなくす」というのは現状からすると途方もなさすぎて、夢物語と感じられるかもしれません。できない理由を挙げれば、いくらでも挙げられるでしょう。そんな時に思い返していただきたいのは、これまで当たり前だと思われていたこと、社会の常識と思われていたことが、ある時ひっくり返るということを、人類はこれまで何回も体験してきたということです。
例えば、日本では、それまでほとんどの日本人にとってこの世のすべてを覆っているかのようにとらえられていた江戸幕府が、ある時消滅してしまいました。幕末の最終末期ですら、倒幕運動に関わった一部の武士以外は、天地そのものと等しい幕府が消えてなくなるなど、想像もできなかったでしょう。倒幕を果たした勢力は、700年間日本を支配した武士の政権とはまったく違う発想で、この国を作り変えました。
しかし、このドラスティックな変化は、ある日突然訪れたのではありません。最終的に倒幕を果たした人物たちよりも以前から、その淵源となる思想を唱える人たちの存在がありました。そして日本の各地で「このままでは日本は危ないのではないか」「幕府に任せておけないのではないか」という議論が起こり、やがて具体的な行動に変わっていき、最後は雪崩のような勢いで幕府を消滅へと追い込みました。
きっかけを作り、時間を経れば、社会は変わる
このことから、社会が大きく変化する際の流れが読み取れると思います。最初に現状に対して疑問を投げかけ、代替案を提示する少数の人たちが現れる(第一世代)。その人たちは常識外れのことを述べているために異端視され、時に迫害される。しかし時間の経過とともにその考えはゆっくりと広がっていく。そのうち、その考えにのっとって行動を起こそうという人たちが現れ、失敗と挫折を繰り返しながらも、少しずつムーブメントとして広がっていく(第二世代)。あるポイントを超えると雪だるま式に動きは大きく、強く、速くなっていき、最後に目に見える形で変化が起こる(第三世代)。
戦争を、軍隊を、なくすことも同じように考えることができるでしょう。今は大勢の人たちが「戦争をなくすことなんてできるわけがない」と考えていたとしても、具体的な提案を耳にし、現実の変化を目の当たりにすれば、人々の意見はどんどん変わっていくものです。私は、そのような変化を起こすための意見を発信し、行動を促進していきたいのです。人類の6千年の文明の歴史上、なしえなかったことをしようとしているのかもしれませんが、もうこれ以上不要な死と破壊を生み出したくありません。少なくとも、そのことを消極的にでも受け入れながら生きていくことは、戦争で無念のうちに亡くなっていった多くの人の死を無駄にすることに感じられてしまい、私には受け入れられません。
起こせる変化は取るに足らない、ささいなものかもしれません。しかし、そのような変化の波が他の人の心を動かし、その人が波をまた起こし…という連鎖を繰り返すことによって、いつか世界から戦争をなくす大波が起こることを信じています。
2024年9月15日
福島宏希
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