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3.空襲を後世に伝える施設:行政がやってくれないなら、自分たちの手で
「ワンコーナー」で終わってしまった東京都の空襲展示
―早乙女さんが館長を務める「東京大空襲・戦災資料センター」は、もともとは公的な施設を目指されていたのでしょうか。
そうですね。「記録する会」の当時は美濃部亮吉都知事(1967年~1979年)の、いわゆる「革新都政」でした。だから僕はもしかしていけるかもしれないと踏んだのです。その時に全五巻からなる「東京大空襲・戦災誌」という記録集を作りました。あれは美濃部さんならびに東京都の助成があってできた大資料集です。
その段階で知事と何回も会う機会があったんですけども、その記録をもとに、美濃部さん、平和祈念館といったかな、ぜひお願いしたいと言ったんです。その当時、都では新宿に環境センターというのを作ろうとしていたそうで、そのワンフロアでもいいのでと、お願いしました。追加的な予算がかからないから、それはいいアイディアだと都知事はうなづいていました。
それにしても、まず資料を整備しないとミュージアムはできないから、と美濃部さんに言われました。東京空襲関連の資料はかなりアメリカにあるんです。戦争が終わった後、「アメリカ戦略爆撃調査団」が持って行っちゃった。例えば空襲の死体の処理についてまとめている「死体処理要綱」という重要な資料があるのですが、それなんかはワシントンで発見しています。英語のできる特派員を送って集めたんです。そういうアメリカにある資料なんかも、取り寄せて準備を始めたらいいのではないかと。
しかし、そうやって資料を集めている間に、都政が赤字になり、それまでのように予算が付かなくなってしまいました。そうしている間に、結局美濃部都政が終わってしまいました。
次の都知事の時、私たちの趣旨を汲んで、ということで「江戸東京博物館」の中に少し東京大空襲を紹介するスペースが作られました。でも巨大な面積の40分の1ほどのスペースですからね。ワンコーナーに過ぎません。それでもないよりはましだと私は思っていますが、仲間の中にはそれでは満足できないという人もいました。
―都立横網町公園の中に「復興記念館」があり、その2階に東京大空襲の展示があります。
あれ、見たことありますか?わずかなものでしょう。関東大震災とごちゃまぜになっちゃっているし、とても十分だとは思えません。また、公園内の「東京都慰霊堂」には、東京空襲の犠牲者の遺骨が、10万5400体居候しています。あと、ちょっと横に、花壇のような場所があるでしょ。「東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑」と言います。犠牲者の氏名だけでも記録に、という運動が市民サイドからあって、名前の記録を受け付けているんですね。あの中に犠牲者の名簿があります。
ただあそこは遺族しか入れません。私は被災したものの、幸い家族を空襲で失ってはいませんから、私は入れません。しかも、名前を見せるときは、当人の名前の部分だけを見せるんですよ。両側は隠す。要するに、プライバシーというものをものすごく気にしているんです。
それに比べて、沖縄は立派ですね。県営の「平和祈念公園」では、犠牲になった方の名前を全部見せている。それも国籍関係なくですよ。命は平等だということでしょ。アメリカ兵でも関係なく。だからもうちょっと前に、東京でもそういう運動を起こせればと思いましたけど、私の個人的な力では資料集を作るのが精いっぱいでした。結局、東京には原爆資料館並みのミュージアムもなければ平和公園もありませんし、何も国家からの支援の手は差し伸べられなかったということです。
◆都立横網町公園内の各施設の紹介は以下参照
【施設紹介】東京都立横網町公園(復興記念館・東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑・東京都慰霊堂)
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「政府のお膝元」の東京都は動きにくい
―東京空襲を祈念する場所に関して、東京都がそこまで動けなかったのはなぜだと思いますか?
東京は政府のお膝元です。運動が盛んになって、民間人の訴訟などが起きると、補償の問題が起きる。それが一つの理由としてあるでしょうね。各地にそれぞれの土地の空襲体験を記録する会はいっぱいできました。ほとんどの都市にあります。みんな地域の歴史を掘り起こしたという文化賞などをもらっています。東京だけはそうはならないんです。
私は証人尋問で法廷に立ったとき、国側は、「早乙女勝元は不適当にして有害」と決めつけました。有害とはなんぞやと弁護団が「有害」の二文字を撤去させました。東京都は私が一番大空襲の惨禍を知っていると思っている。そういう連中が、がたがた騒ぐというと困るという議員が結構いるんじゃないですか。
運動を続けていれば手を差し伸べてくれる人もいる
―それから現在の「東京大空襲・戦災資料センター」を設立する動きになったんですね。
東京都の「平和祈念館」建設計画は1999年に凍結されました。実質的な棚上げですよね。棚上げのままならまだよかったんですが、祈念館の構想があったから、それまで記録する会が集めていた資料は東京都が預かってくれていたものを、凍結と同時に資料を引き取れと言われたんです。段ボール箱40箱ほどです。それだけの量は個人では預かれません。その資料をどうすればいいのかという大問題になったんです。大変困惑し、それなら民間で作ることはできないのか、ということになりました。
そうしている間に、土地を提供したいという女性が現れました。それが今センターが建っている土地です。贈与税の問題があり、最終的に「公益財団法人 政治経済研究所」という団体に引き継ぐことができました。約200坪です。運動を続けていればそういう人にもめぐりあうということですね。
15年前に募金運動を開始して、民間で募金1億円を集めました。それで鉄骨の三階建てができたのですが、修学旅行の生徒が来ても会議室に50人しか入れない。それだとほとんどの修学旅行の要望に応えられないから、ということで、数年しないうちにもう一度1億円を集めようという話になりました。雲をつかむような話ですけど、なんとかやり遂げて、スペースが倍になりました。それで会議室には100人は入れるようになりました。
「追体験の時代」に向けて:種まきしなきゃ芽は出ない
―これからセンターをどのようにしていきたいですか?
今後、戦争体験者はもうすぐいなくなります。そうすると追体験の時代に入るということです。つまり体験は歴史に移行するということですね。そうした場合に追体験はどのようにできるか。それは資料がなければできません。映像と活字と、コミックでもいい。センターも目下リニューアルに入っています。映像の部分を強化していく方針です。さらに、リニューアルでは100人は入る談話室を作りたいと思っています。談話室は映像を観る部屋である必要もあります。未来の世代ですからね。種まきしなきゃ芽は出ないんです。
―ありがとうございました。
💡 東京大空襲・戦災資料センター(東京都江東区北砂1-5)
センターでは、リニューアルに向けた募金を集めています。ぜひご協力ください。
送金先:郵便振替口座 00170-6-123225 加入者名:東京大空襲・戦災資料センター
早乙女勝元(さおとめかつもと)
1932(昭和7)年東京生まれ。12歳で東京大空襲を体験する。1970年「東京空襲を記録する会」を結成。2002年「東京大空襲・戦災資料センター」を開設し、館長に就任。「下町の故郷」が20歳で刊行。著書は100冊を超え、主なものに「東京大空襲―昭和20年3月10日の記録 (岩波新書 青版 775)」(岩波新書)、「図説 東京大空襲 全集・シリーズふくろうの本/日本の歴史」(河出書房新社)、「もしも君に会わなかったら」(新日本出版社)、「蛍の唄 (新潮文庫)」などがある。
受賞歴
- 日本ジャーナリスト会議奨励賞(「東京大空襲―昭和20年3月10日の記録 (岩波新書 青版 775)」、1971年)
- 菊池寛賞・日本ジャーナリスト会議奨励賞(東京空襲を記録する会「東京大空襲・戦災誌」、1975年)
- 第15回日本アカデミー賞特別賞(『戦争と青春』で企画賞、1992年)
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