【映画】永遠の0(ゼロ)/特攻や戦争を美化している作品には思えない


 

映画「永遠の0(ゼロ)」は、百田尚樹氏原作の小説「永遠の0」の映画版(2013年公開)です。観客動員数は700万人、興行収入は歴代の邦画実写映画で6位にランクインし(Wikipediaより)、さらにテレビ放映もされたので、既にご覧になった方も多いと思います。私は原作の小説は読んでいませんが、この映画は評価に値すると感じています。

(ページ下部にDVD、原作小説、検証本のリンクがありますので、ご覧になりたい方はそちらをご確認ください)

 

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ストーリー概要

26歳の青年とその姉が、特攻隊で亡くなった祖母の最初の夫で、二人の本当の祖父である宮部久蔵について調べるところから話は始まります。今は高齢となった、宮部久蔵の当時の戦友を何名も尋ね歩き、少しずつ祖父の姿を知っていきます。宮部は凄腕の零戦(零式艦上戦闘機、正式には「れいせん」が略称の読みだが、ゼロ戦と一般的に呼ばれている)パイロットでしたが、当時としては極めて珍しいことに、「絶対に生きて帰る」をモットーにしていました。彼の考えは、自分一人が死んでも軍にとってそれほど大きな意味を持たないが、残された妻と娘を大変な目に遭わせてしまう。だから、絶対に死ねないと考えていました。そのため、敵味方の戦闘機同士の空中戦になると、戦闘に加わらず一人上空で退避していることがしばしばあり、パイロット仲間からは「帝国海軍一の臆病者」などと陰口を叩かれていました。そんな宮部は、戦況の悪化とともに沖縄へ向かう特攻機の護衛の役割に着きましたが、後に自ら特攻の道を選び、亡くなります。

💡 沖縄戦の特攻作戦全体を知りたい方は、こちらのページをご覧ください ➡ 沖縄戦-空の特攻作戦

 

批判も多いヒット作

本作は大ヒット作であり、多くの人に受け入れられていると言えますが、同時に批判もかなり多い作品であることは特徴的と言えるでしょう。批判には多様なものがありますが、かいつまんで以下に紹介します。

  • 主人公宮部久蔵のように、絶対に死なないことを公言し、そのために逃げ回るようなことは当時許されなかった。主人公の性格の設定自体が非現実的。
  • 才能があれば、宮部のような存在が当時の日本軍でも許されたという誤解を与える。
  • 特攻作戦決定に至るまでの上層部の意思決定プロセスなどが全く描かれておらず、軍の作戦指導の責任の追及がない。
  • 特攻が「仕方なかったもの」としてとらえられ、ロマンチシズムと愛国精神の美しさだけがメッセージとして残ってしまう。

そして上記のように感じられてしまう要因の一つに、本作品とは関係ない部分での作者の日頃の言動も起因しているように思います。批判する方の多くが、作者についての批判とも絡めているからです。特定の人に対しての好悪を言うのは好きではありませんが、本作品の印象には付き物なのであえて言いますと、私も作者に良い印象は持っていません。しかし、作品の評価はまた別であってしかるべきだと思います。

 

特攻を美化してはいない

私はこの作品が特攻や戦争を美化しているとはとても思えません。それどころか、生きる意志を持ち、その技能も持っているはずの主人公が、徹底的に精神を破壊され、最後は自死を選ばざるを得ないところまで追い詰められる様子は、先の大戦での日本軍への痛烈な批判となっているのではないでしょうか。それは作者自身がそのようなことを述べてもいることからも分かります。主人公は「特攻」を選んだというより、「自死」を選んだという方がふさわしい気がします。元々、「自分一人が死んでもそれほど意味はない」と言っている人です。あの状況で機体一つ敵艦に当てたところで、戦局が挽回できるとは万に一つも思っていないでしょう。

特に印象的なのは、沖縄へ特攻へ行く飛行機を護衛するようになって以降の、主人公の描き方です。特に、大石賢一郎(主人公が筑波で教官をしていた時の教え子)が鹿児島県の鹿屋基地に来た時、初めて会った時の主人公の様子です。部屋の片隅で、体育座りのようにしながら横になっている主人公の顔は、生きることへの希望を完全に失った表情でした。岡田准一さんの演技のうまさに負うところも大きいと思います。私は、あの表情が、毎日のように青年たちの死を見続けたことで精神を破壊された者の様子を端的に表現していると思います。そしてその顔に戦争の本質が映し出されていると感じました。そのような感情は、口でどれだけ戦争の悲惨さを伝えても、なかなか感じることはできないものだと思います。もし特攻や戦争を美化するのであれば、主人公の表情は明るいとは言わないまでも、もっと「国のために」割り切ったすっきりした表情で映し出されるはずですし、作戦批判の言葉は出ないでしょう。

主人公が特攻を選ぶ理由は最後まで明らかにされません。私は、毎日若い青年を死への旅へと送り続け、さらに自分が犠牲になるべきところでも生きて帰ってきてしまったことへの苦悩が、彼をそうさせたのではないかと思います。彼はそれまで徹底的に生きることを選んできましたが、最後は徹底的に死ぬことを決めたのでしょう。だから、自分の零戦の不調を見抜いたとき、「その型の零戦が初めて乗った機体だから」という理由をつけ、大石へ交代するように願ったのでしょう。そのあたりは物語的すぎるかもしれませんが、元々がフィクションの小説なので、構わないと思います。

 

主人公の性格設定が軍の非人間性を逆に明瞭にしている

主人公の性格の設定が非現実的という批判ですが、たしかに当時の実情に照らせば、彼のような人がずっとパイロットでいれたというのはあり得ないことかもしれません。ただ、彼の性格のおかげで、当時の軍の非人間的な部分が浮き彫りになっています。もし彼が標準的な軍人なら、上官との摩擦も起きず、淡々と話は進むでしょう。しかし、非常識的な存在であるがゆえに、上官の言葉は激しさを増し、当時の軍の一大特徴である激しい体罰が描かれるのです。徹底的に生きようとすること、それは現代では理解し得る生き方です。しかし、あの時代の軍人にとっては、場合によっては反逆罪にもなりうることで、あの主人公の設定の意味は「現代であれば当たり前に考えられることを、もし当時の軍に当てはめてみたらどんな反応が起きるのか」という思考実験のようなものだと考えると、逆に意味のある「実験」に思えてきます。

軍の責任追及のシーンがないことについても、作品全体として戦闘の厳しさ、特攻に恐怖する前線兵士の様子、それでも特攻を命じる上官の非情、それでも闘い続ける日本軍のある意味での愚かさが描かれていると私は感じるので、問題がないと思います。上層部の会議のシーンや、作戦決定の背景などの描写がないからと言って、戦争と軍への責任追及が甘いというものではないと感じます。また、いずれの作品でも直接的に責任に言及しなければならないというものではないのではないでしょうか。一つの作品で伝えられることには限界があります。映画はドキュメンタリー作品ではありません。私は本作は、現場の一兵士の様子を通じて、太平洋戦争の一側面を描くという目的を十分に達していると思います。

 

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タイトルへの違和感

一方で、私が少し気になるというか、心に突っかかるものがあるのは、「永遠の0」というタイトルです。「永遠の」は、戦死者は死後靖国で皆祀られるというところから連想されているのでしょうか。そうすると、「永遠になったゼロ戦パイロット」の意味でしょうか。それとも、ゼロ戦(とパイロット)の栄光と国を思う気持ちは(日本人の心の中で)永遠に消えない、という意味でしょうか。いずれにしても、一部の日本人の間で今も心の拠り所として語り継がれる「ゼロ戦」を、高々と謳い上げるところが原作者らしいと感じます。

私には、零戦には哀愁のイメージが強くあります。それは、それ以上の戦闘機を生み出せず(終戦間際にいくつかさらに優秀な戦闘機も出たが、その時にはもう間に合わなかった)、太平洋戦争の全般を通じて軍の作戦の中心を担いながら、最後は特攻機にまでされてしまった哀しみの象徴です。戦争終盤には完全に米軍機の後塵を拝する性能しかなかった戦闘機をして、「永遠の0」と言ってしまうのは、精神の国日本を彷彿とさせるな、と感じました。ただそれも原作者らしいと言え、この作品の性格の一つになっているのでしょう。純粋に作品のタイトルとしては、シンプルですっきりしており、遠くの彼方に飛んでいくゼロ戦のイメージがすぐに湧くので、良い作品名だと思います。

 

長々と書いてしまいましたが、個人的には一見に値する作品と思いますので、もしまだご覧になっていない方がいらっしゃいましたらぜひご覧になるとよいかと思います。私とはまた違った感想をお持ちになることでしょう。また、本作を批判的に検証した本もあるようですので、併せてご紹介します。

 

DVD 永遠の0 DVD通常版

 

原作小説 永遠の0 (講談社文庫)

 

 

検証本 『永遠の0』を検証する ただ感涙するだけでいいのか



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