教育勅語は現代の道徳教育で活用できるのか?-教育勅語活用問題の概要と分析

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教育勅語活用に関する賛否

政府答弁書の決定は閣僚の全員一致に基く「閣議決定」が必要です。そのため、答弁書はその時点での政府全体の意思と言えます。上記のような閣議決定に対し、多くの専門家、団体、評論家、メディアなどから反発が起きました。以下に主な意見を例示します。

  • 過去の国会決議や政府発言と比べて容認の度合いを根拠なく強めるもので正当性を欠いている。(1)
  • 一部分で良いことが書いてあるように見えても、全体から切り離して教えることは問題教育勅語を使う必要もない。(1)
  • 教育勅語はその成り立ちが日本国憲法の国民主権とは相いれない。子どもたちを侵略戦争に駆り立てる精神的支柱としての役割を果たしてきたものであり、道徳の時間の教材や朝礼で朗唱(ろうしょう)することなど「教材として活用する」ことは容認されない。(2)
  • 指導原理としてはダメだと言いつつも、現にそういうものとして(一部学校等で)使われている実態がある。政府から容認したかのような発言が出れば、教育現場を混乱させることになる。(2)
  • 徳目には現在に通じる点があるので現代でも活用できるという意見があるが、それは文字面の話。発布当時の社会は、子は父親に絶対服従という大前提があった。また当時の妻は民法で「無能力者」扱い。女性には参政権もなく、教育の機会も男女均等ではなかった。このように根本的に違った時代背景の中で出された考えを、今でも通じると考えるのは無理がある(3)

出典:(1)教育勅語、批判ない使用認めず=教育研究者が声明(時事通信 2017/04/27-11:58)、(2)◆教育勅語是認をゆるすな! 「憲法に反する教育勅語を教えることを是認する松野文部科学大臣発言の撤回を求める」要請(全日本教職員組合)、(3)教育勅語は本当に「今でも十分通じるものがある」のか?(AERA dot.)

 

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一方で、武蔵野大学の貝塚茂樹教授によれば、以下のような点から政府答弁に問題はないと主張しています。

  • 衆参両院の決議は、占領下GHQ主導で行われたものであるうえに、国会決議には法的拘束力がなく、過大視することは疑問
  • 1946(昭和21)年10月の文部次官通牒「勅語及詔書等の取扱いについて」で日本政府の教育勅語に対する姿勢は明確にされている。そこでは教育勅語の廃止ではなく、それを絶対の理念とすることを否定した上で、特に学校教育での神格化した取扱いの禁止を求めている。
  • 1947(昭和22)年3月、高橋誠一郎文部大臣が教育勅語は「孔孟の教へとかモーゼの戒律とか云ふようなものと同様なものとなって存在する」と述べている。
  • 日本国憲法、教育基本法に「抵触する部分」は「勅語という形式で教育理念を国民に示すこと」「抵触しない部分」は「父母に考に以下の徳目」である。
  • 教育基本法制定当時の文部大臣田中耕太郎は、法制定にあたって「教育勅語の徳目が古今東西を通じて変わらない人類普遍の道徳原理であり、それが民主憲法の精神とは決して矛盾しない」と述べた。
  • 田中大臣は「教育勅語は倫理教育の一つの貴重なる資料である」と述べている。
  • 戦前と戦後を分断し、戦前を全否定するような歴史観にはゆがみが出る。こうした態度が逆に教育勅語を「神がかり的なもの」として扱うことになる。真に問われるべきは今なお教育勅語を感情的にしか議論できない戦後社会の怠慢と貧困である。

出典:教育勅語を全否定し、歴史を直視しない野党の歴史観は戦後の欺瞞だ 武蔵野大教授・貝塚茂樹(産経ニュース)

 

また、福岡教育連盟執行委員長の矢ケ部大輔氏は以下の点を挙げています。

  • 教育勅語の内容は現代の日本においても十分に通用する内容であり、むしろ日本人が大切にしてきたこのような価値が今失われているがために、学校教育が非常に難しい状況になっているのではないか。
  • 日本人がいかなる徳を重んじてきたか、という点については教育勅語に学ぶことが多くある
  • 教師は、日本人の道徳観や美風がいかにして形成されてきたかという点も考慮し、教育勅語に込められた精神を正しく理解すべき。

出典:「教育勅語」-その精神に学びたい(産経ニュース)

 

以上が、政府答弁をめぐる意見の一部です。みなさんはどう考えますか?

 

筆者としては、現代の教育現場において、教育勅語を使用して道徳の授業を行うべきではないと考えます。また、その立場から、政府答弁は教育勅語の教育現場での肯定的な使用を禁止はしないまでも、否定的な立場を取るべきであったと考えます。その理由は以下の通りです。

 

学校で教えようとすれば教育勅語そのものの精神を失う

教育勅語は精神の問題を語っていることから、その勅語たらしめている基本的な精神が重要です。一方で、今の教育現場で活用しようとすれば、現在とは根本的に異なった国家観、政体の下で作成された勅語であり、上述したように、多くの制約があります。特に、天皇制国家と、天皇のお言葉という、教育勅語の根本部分を省かなければなりません

また、各徳目も、発布当時の精神(親子関係、夫婦関係など)をそのままを伝えることはできないものが存在します(歴史的な意味合いを解説することは可能ですが、それを守るべき道徳として伝えることはできません)。さらに、「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」の部分は、言葉の意味そのままを、今守るべき徳目として伝えることは極めて難しいでしょう。よく「天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」の部分にあえて触れていない解説を見かけます。「国(または公)のためを思って勇気を振り絞って行動すること」という程度の意味であり、現在にも通用する、ということのようですが、それで「天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」と言っている教育勅語の精神が伝わるのでしょうか。

また、「公」を公共と解釈した解説がされることもありますが、教育勅語の「公」は文部省の現代語訳によれば「皇室国家」です。皇室を取ったとしても、残るのは国家となります。この文脈からは、(広い意味での公共のために)善い行いをしましょう、という風に捉えることはできません。その意味で該当するところがあるとすれば、「博愛衆ニ及ホシ」「進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ」の部分ではないでしょうか。「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ」が意味するところは、あくまで「国家の一大事が起これば、国家のために行動せよ」でしょう。これは個人が持つ倫理観としては構わないのでしょうが、そのように指導することは国家主義に直結するもので、少なくとも現在の学校で行うべきものではないと考えます。

以上から、「法律上の学校」で教育勅語を活用しようと考えれば、憲法や教育基本法の制約を回避し、教育勅語の精神を半ば以上抜いた形で伝えることが大前提となります。各徳目も、現代風に言い回しをかなり変えて伝えることが必要になります。そのような形で教育勅語を教材にしたとしても、勅語の作成に携わった人々の思いを伝えることはできず、表面的な徳目の羅列をなぞるだけになりはしないでしょうか。

したがって、教育勅語を道徳として活用したいと考える方々は、法律上の学校ではない私塾を開き、そこに理念に賛同する子弟を集めて教育勅語に基いた道徳教育をするのが最善であると考えます。そうすれば、天皇の神秘性から復古的な道徳観念まで、余すことなく子どもたちに伝えることができるでしょう。

 

 

 

12の徳目を教えるのに教育勅語である必要性がない

先ほど掲げた12の徳目をもう一度載せます。

  1. 父母に孝行をつくし(父母ニ孝ニ)
  2. 兄弟姉妹仲よくし(兄弟ニ友ニ)
  3. 夫婦互に睦び合い(夫婦相和シ)
  4. 朋友互に信義を以って交わり(朋友相信シ)
  5. へりくだって気随気儘の振舞いをせず(恭儉己レヲ持シ)
  6. 人々に対して慈愛を及すようにし(博愛衆ニ及ホシ)
  7. 学問を修め業務を習って(學ヲ修メ業ヲ習ヒ)
  8. 知識才能を養い(以テ智能ヲ啓發シ)
  9. 善良有為の人物となり(德器ヲ成就シ)
  10. 進んで公共の利益を広め世のためになる仕事をおこし(進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ)
  11. 常に皇室典範並びに憲法を始め諸々の法令を尊重遵守し(常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵ヒ)
  12. 万一危急の大事が起ったならば、大義に基づいて勇気をふるい一身を捧げて皇室国家の為につくせ(一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ)

上述したいくつかの部分以外は、いずれも現代でも通用する内容であることは確かでしょう。しかし、この大部分はこれまで行われて来た道徳教育の中に盛り込まれてきたものです。

以下は現在の中学校の道徳の内容です。これに12の徳目がどのように対応するか考えてみました。各項目の後の<>内の数字は上記の徳目の番号です。

1 主として自分自身に関すること。

(1) 望ましい生活習慣を身に付け,心身の健康の増進を図り,節度を守り節制に心掛け調和のある生活をする。

(2) より高い目標を目指し,希望と勇気をもって着実にやり抜く強い意志をもつ。

(3) 自律の精神を重んじ,自主的に考え,誠実に実行してその結果に責任をもつ。

(4) 真理を愛し,真実を求め,理想の実現を目指して自己の人生を切り拓いていく。

(5) 自己を見つめ,自己の向上を図るとともに,個性を伸ばして充実した生き方を追求する。

2 主として他の人とのかかわりに関すること。

(1) 礼儀の意義を理解し,時と場に応じた適切な言動をとる。<5>

(2) 温かい人間愛の精神を深め,他の人々に対し思いやりの心をもつ。<6>

(3) 友情の尊さを理解して心から信頼できる友達をもち,互いに励まし合い,高め合う。<4>

(4) 男女は,互いに異性についての正しい理解を深め,相手の人格を尊重する。

(5) それぞれの個性や立場を尊重し,いろいろなものの見方や考え方があることを理解して,寛容の心をもち謙虚に他に学ぶ。

(6) 多くの人々の善意や支えにより,日々の生活や現在の自分があることに感謝し,それにこたえる。

3 主として自然や崇高なものとのかかわりに関すること。

(1) 生命の尊さを理解し,かけがえのない自他の生命を尊重する。

(2) 自然を愛護し,美しいものに感動する豊かな心をもち,人間の力を超えたものに対する畏敬の念を深める。

(3) 人間には弱さや醜さを克服する強さや気高さがあることを信じて,人間として生きることに喜びを見いだすように努める。

4 主として集団や社会とのかかわりに関すること。

(1) 法やきまりの意義を理解し,遵(じゅん)守するとともに,自他の権利を重んじ義務を確実に果たして,社会の秩序と規律を高めるように努める。<11>

(2) 公徳心及び社会連帯の自覚を高め,よりよい社会の実現に努める。<10>

(3) 正義を重んじ,だれに対しても公正,公平にし,差別や偏見のない社会の実現に努める。

(4) 自己が属する様々な集団の意義についての理解を深め,役割と責任を自覚し集団生活の向上に努める。

(5) 勤労の尊さや意義を理解し,奉仕の精神をもって,公共の福祉と社会の発展に努める。<7、8、10>

(6) 父母,祖父母に敬愛の念を深め,家族の一員としての自覚をもって充実した家庭生活を築く。<1、2、3>

(7) 学級や学校の一員としての自覚をもち,教師や学校の人々に敬愛の念を深め,協力してよりよい校風を樹立する。

(8) 地域社会の一員としての自覚をもって郷土を愛し,社会に尽くした先人や高齢者に尊敬と感謝の念を深め,郷土の発展に努める。

(9) 日本人としての自覚をもって国を愛し,国家の発展に努めるとともに,優れた伝統の継承と新しい文化の創造に貢献する。

(10) 世界の中の日本人としての自覚をもち,国際的視野に立って,世界の平和と人類の幸福に貢献する。

出典:文部科学省ホームページ

 

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必ずしも全ての項目とぴったり対応するわけではないものの、ほとんどの徳目が現代の道徳教育にも入っていることが分かると思います。上記で抜けている徳目は「善良有為の人物となり(德器ヲ成就シ)」と「万一危急の大事が起ったならば、大義に基づいて勇気をふるい一身を捧げて皇室国家の為につくせ(一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ)」です。「善良有為の人物となり(德器ヲ成就シ)」は、上記の道徳教育の内容が身につけば、自然と「善良有為の人物」となるでしょう。「善良有為」という言葉は意味が曖昧なため、それだけで教える具体的な内容を示すのは難しいと思います。

「万一危急の大事が起ったならば、大義に基づいて勇気をふるい一身を捧げて皇室国家の為につくせ(一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ)」については、私の解釈では道徳教育の中に含まれる項目はありませんでした(現憲法下でこのようなことを教えることはできないので当然ですね)。したがって、教育勅語の徳目を網羅する意味合いで勅語を授業の教材に用いるのであれば、その意味はこの「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」の部分にしかないのではないかと思います。そして、上述したように、この部分は学校教育で学習するにはふさわしくない内容であると考えられるので、全体として教育勅語を道徳教育で用いる合理的な理由はないと考えられます。

 

そもそも教育基本法に教育勅語の内容が含まれている

2006(平成18)年に、第一次安倍内閣の下で改正された教育基本法は、旧法から一変して教育の目標を具体的に書き込んでいます。そしてその内容は教育勅語の内容とも通ずる部分が少なくありません。教育勅語の内容と符合する、新たに追加された内容を挙げると、「公共の精神を尊び」「伝統を継承し」(前文)、「幅広い知識と教養を身に付け」(第二条一項)、「職業及び生活との関連を重視し」(第二条二項)、「公共の精神に基づき、主体的に社会の形成に参加し」(第二条三項)、「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに」(第二条五項)、などがあり、12の徳目に限らず、天皇制国家・天皇の神秘性に関する部分を除き、教育勅語全体の趣旨に似通っていると考えられかもしれません。良し悪しの問題は抜きにしても、実態として現在の教育基本法は、教育勅語の内容・趣旨を少なからず含んでいると言えます。この基本法を踏まえて作成された道徳教育の内容ですから、改めて教育勅語を道徳教育の現場に持ち出す理由が無いのは当然と言えるかもしれません。

 

以上で本項は終わりです。来年(2018年)より小学校で、再来年より中学校で道徳は「特別の教科」(数値ではなく文章で評価をする)として格上げされます。その直前とも言えるタイミングで起きた今回の騒動。今後、教育勅語の活用を含めた道徳教育全体がどのようになっていくのか、注視していくことが求められていると感じます。

 

<関連書籍のご案内>

教育勅語や愛国心教育に関しては、様々な本が出版されています。ここでは、より深く考えるための2冊をご紹介します。読み比べると、深い理解が得られるでしょう。(リンクからAmazonまたは楽天で購入できます)

 

1.教育勅語の真実

この本は教育勅語の成立過程を丁寧に追いながら、そこに込められた精神を見つめなおします。教育勅語に書かれた精神は今もなお日本人の心の奥底に根付き、災害など様々な時に発揮されている、と述べています。教育勅語と戦前日本の精神性を肯定的に捉えてみたい方にお薦めの一冊です。

 

 

2.学校教育と愛国心―戦前・戦後の「愛国心」教育の軌跡

愛国心を育てるために、学校教育がどのような役割を果たしてきたか、詳細に分析している本です。教育勅語を含む戦前教育だけではなく、戦後の教育が愛国心育成に回帰している様も描き出されています。政治が国民を国家目標へ導くための道具として、教育をどのように利用してきたか、批判的に考えてみたい方にお薦めの一冊です。

 


photo: public domain, wikimedia commons




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