東京大空襲の被害に遭われた方たちの、横のつながりや補償への動きはどのようなものだったのでしょうか。どのように空襲の被害を世に伝えようとされてきたのでしょうか。空襲被災者で、20年以上にわたり空襲遺族のためのネットワーク作りに奔走してこられ、現在「東京空襲犠牲者遺族会」会長、「全国空襲被害者連絡協議会」顧問の星野弘さんにお話を伺いました。
もくじ
1.記録活動から始まった遺族会の活動
2.せめて名前だけでも
3.超党派議連による立法の動き
💡 民間人戦災者への戦後補償がどのようなものだったのか知りたい方はこちらをご覧ください ➡ 【概要】旧軍人・軍属、民間人被災者の戦後補償-放置される民間人
1.記録活動から始まった遺族会の活動
-最初に「東京空襲犠牲者遺族会」の活動について伺います。地域交流会をやられていたそうですが、どのような経緯で始められたのでしょうか?
交流会を始めたのは、戦後50年の年(1995年)の半年前です。このときはまだ遺族会はありませんでした。それまでは、個人的に知っていたり、空襲関係の運動をやっていた人に、手紙を出したり、お尋ねしたり、休日を利用して活動していた期間が何十年とありました。それを思い出して、その人たちに手紙を出しました。ほとんどの人がすぐ「止めなさい」と言うんです。「私たちはさんざん苦労してきた。あなたに私と同じような苦労をさせたくない。だからお線香上げてくれるだけでいい」と言われました。
それでも、私たちはどこでどのような被害があったのかを明確にするために、公民館などの会場を使って、交流会をやりました。その交流会のほとんどが冊子にまとまっています。東京空襲の実相の一端、主要なところはそれを見ればほとんど分かります。遺族会は記録活動から始まったんです。
これまで約50地区で開催しました。今は息が切れてしまい取り組めていませんが、これからまたやっていきたいです。やらないと活動は進んでいきませんから。
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地図づくりにも取り組んできた
それからもう一つの主な活動だったのが、戦前の地図作りです。まずは各地区でどんな犠牲があったのかということを、いろいろな方の記録を元に作っていき、それを地図上に落としていきました。地図はほとんど完成しましたが、途中で止まっています。すごく難しいのです。
-地図というのは、どのようなものでしょうか?
どこに誰が住んでいたか、全部名前を入れていくんです。そうして、この家は全滅、というようにです。町別のやつを作って、まとめました。仮埋葬※の場所もです。そうすると、町全体でどの場所でどのくらいの被害があったのか、よく分かるのです。
※仮埋葬…東京大空襲の際、火葬場も焼けたことに加え、あまりにも犠牲者が多かったため埋葬することができなかった。そのため、遺体を一時的に付近の寺院や学校の校庭等に埋めた。
次は ➡ せめて名前だけでも
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