3.超党派議連による立法の動き
-4月27日の報道で、超党派議連が空襲被害者救済の一時金支給法案を了承したとありました。今後この動きはどのようになるでしょうか?
今、各党に持ち帰って検討されているところです。当面は今国会中になんとか実らせようということで期待をしています。今度つぶれたら大変です。またやり直しになってしまう。せめてこの法案だけは今回成立させてもらいたい。それで終わるわけではなく、支給法素案には、一時金支給の柱とは別に、空襲被害調査ということがありますので、これからの問題です。
なぜ戦後補償にここまで時間がかかるのか
-空襲被害者への補償にこれほど時間がかかっているのはなぜなのでしょうか?
私たちが教えてもらいたいくらいですよ。これだけ一生懸命やってきても実現していないんです。「受忍論」についても何も知らない人がたくさんいる。お年寄りでさえもそうです。補償の対象は当時国との雇用関係があった人に限る。こういう議論ですよ。
個人的な見解では、我が国の戦中の政治体制がファシズムだったことが関係していると思います。3月10日の空襲の6週間後に、小磯内閣が出した国民への呼びかけがあります(大本営報道部「本土新戦場への覚悟」)。ここでは、戦争がここまで来たら、戦場も本土も差がない。だから国民は等しく特攻に学べ、闘うべきだ、という意味のことを言っています。先ほどの受忍論には、そういう当時の軍・政府の方針が尾を引いていると思います。戦後の民主的な国会を持つ国は、どの国も民間人も軍人も等しく補償しています。民間人を置き去りにしているのは日本だけですよ。終戦の年、8月15日の官報で、総理大臣鈴木貫太郎の名前で、民間人も等しく救済しないといけないと言っていたのにも関わらず、です。
💡 民間人戦災者への戦後補償がどのようなものだったのか知りたい方はこちらをご覧ください ➡ 【概要】旧軍人・軍属、民間人被災者の戦後補償-放置される民間人
日本は空襲被害者に対して何もやっていない
空襲の民間人犠牲者の問題は、日本は戦後70年以上経っても決まっていない。何もやっていないんです。そんな国は日本だけ。はっきりさせることが必要です。どんなことがあっても。いろいろと苦労して知恵を出して、中には市に予算を組ませて追悼碑を作ったり刻銘したりされたところもありました。ただ、大きな都市になると簡単に応じられません。まして我々の方(東京)は沖縄みたいに応じるなんて全く考えられません。これが日本の状況です。亡くなった人たち、もうあの世に行っちゃった人たちも、納得していったわけじゃないですよ。
東京大空襲訴訟の原告団になっていただいた方の、こんな話があります。その人は兵隊に7年か9年行ってて、軍曹くらいにはなっていたんじゃないかな。帰国したら家族全部亡くなっていました。空襲で。戦後奥さんをもらったんだけど、その人も孤児でした。自分と同じ身分の人と結婚したわけね。それで、東京大空襲訴訟の原告になってくれないかとお願いをしたんですが、本人にしてみれば大変なことなわけですね。今まで国のために頑張っていたのに、今度は国に立てつくことですから。だから、なかなか決断がつかなくて、何度も話をしました。三回目の話が終わった時に電話がかかってきて、やります、原告になります、と言ってもらえました。その方はその後足を悪くして、歩けなくなってしまいました。最後にね、亡くなる半年前くらいかな。最高裁判決が出てから、手紙を送ってきてくださいました。「私は、結果がこうなっても、父や母や弟、妹たちのいるところに、胸を張っていくようにします。星野さん、心配しないでください。」と手紙にはありました。
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亡くなった人々の気持ちを犠牲にしないためにもしゃにむに取り組んでいく
だから、一人一人の手に取ってみると、目覚めてしまった人は我慢ならないんです。ところが、感情をむき出しにしたら、誰もついてきてもらえない。そういうハンデの中で、みんな活動してきました。その中でも、活動スタイルを発見した人はまだいいんですよ。たとえば語り部をやる。私の語り部でも十分戦争を知らない人に分かってもらえる、ということで自信を持っている人、こういう人は良い方ですよ。そうじゃない人は、なかなかご苦労しています。これからもそうでしょう。
戦後70年経って、当時の被害の実相を歪めるような発言も出てきています。私たちが気を緩めるとえらいことになる。亡くなった人たち、傷を負った人たち、そういう人たちの戦後の苦労を無にしない。しっかりと記録するぞということに、引き続いてしゃにむに取り組んでいく必要があると思うんですよ。
-ありがとうございました。
プロフィール
星野弘(ほしのひろし)
東京空襲犠牲者遺族会 会長、全国空襲被害者連絡協議会 顧問
1930(昭和5)年10月生まれ。86歳。14歳で東京大空襲を体験。猛火の中を逃げまどい、叔父、叔母が犠牲となる。空襲直後から、8月の終戦まで焼け跡整理に動員され、遺体収容作業にも従事。退職後、1990年から凄惨な戦争の真実を後世に正しく伝えるために、空襲犠牲者の氏名記録の活動を始める。また、戦争での民間人犠牲者を差別している現状克服を目指し、東京大空襲訴訟原告団(122名)の団長となる。
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💡 民間人戦災者への戦後補償とは? ➡ 【概要】旧軍人・軍属、民間人被災者の戦後補償-放置される民間人
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