【インタビュー】星野弘さん(東京空襲犠牲者遺族会 会長)-空襲被災者の「戦い」はまだ終わっていない

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2.せめて名前だけでも

 

私たち遺族会の世話人だった、昨年亡くなった女性がいます。両親を空襲で亡くした遺族です。彼女は乳飲み子を抱えて、母親に川に突き落とされて、それで助かった。そうしなかったら助からなかった。たまたまそこを通りかかった当時の漁民が救い上げてくれて助かった。彼女の両親は遺体も見つからず、生きた証に、せめて名前だけでも残したいと言っていました。それで、「せめて名前だけでも」これを活動のスローガンにしました。

戦後、進駐軍は行政に対して空襲被害について広めたり、資料を収集したり、そういうことをしてはいけないと指導をしていました。追悼誌も作ってはいけなかったんです。東京都が公式に通達を出しています。

正確な犠牲者数をつかむための努力

東京の下町には、戸籍を出身地に置いたまま長屋に暮らしていた人がたくさんいました。結婚したら戸籍を出るというのは戦後の話です。戦前は結婚しても戸籍は動かさないのが一般的でした。徴兵の赤紙は本籍の所に行きます。だから、軍隊も本籍地の基地に行くんです。東京にいても北海道の基地に行くというような。下町はそういう人が圧倒的に多かったです。

そのため、亡くなった人の数の数え方が難しいんです。戸籍上その地域で亡くなった方の人数と、実際に遺体として発見された人数が全然違うということが起きます。省庁が発表した犠牲者数も、数がみんな違います。人の移動が少ない地方は、戸籍を押さえればおおよそ犠牲に遭われた方と一致するところが多いようですが、東京はそうはいきません。空襲で何名の方が亡くなったのか、100%正確にすることはできませんが、それに迫る努力をしないといけません。ある地域では、戸籍を数えただけだと亡くなった方は約800人だけれど、実際のその場で亡くなった方は約3000人という事例があります。戸籍チェックだけだと実際に亡くなった方よりも少なくなるんです。戦前の社会のあり方を頭にいれておかないといけないのです。

そういった意味で、空襲犠牲者の氏名をつかむということは、戸籍の確認よりも大事だと思います。私たちは遺族会を作る前に、氏名の記録運動をやっていました。遺体も見つからず、生きていた証にせめて名前だけでも、というのを。空襲で亡くなった方のお名前の連絡を、遺族などからご連絡頂いていました。FAXで入ってくるのですが、届いたお名前をコンピューターに入力するために、事務所に居ることのできる日は朝から晩の遅くまで事務所に居ないといけませんでした。当初の2回の呼びかけで把握できたのは、約7000名です。今、名簿は80,905名になりました。これは3月10日だけではなく、一連の東京空襲全体で犠牲になられた方々です。

 

東京空襲犠牲者遺族会 事務所
東京空襲犠牲者遺族会の事務所。戦後72年が経った今でも毎日人が詰め、空襲の記録作りや立法活動に取り組んでいる。(撮影:管理人)

 

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行政は名前の記録に責任を持たない

 

-沖縄の「平和の礎(いしじ)」のように、(空襲)犠牲者の名を刻印した碑(刻銘碑、こくめいひ)がある地域は他にあるのでしょうか?

 

大阪は府として刻銘碑を作りました。大阪城公園の中にある「大阪国際平和センター(ピースおおさか)」の中です。府では、刻銘する全員に関して、遺族に氏名を公開していいかを聞きました。府として責任を持ってやっています。神戸市や千葉市では、刻銘碑が設置されましたが、市が場所を提供し、碑と刻銘については民間の団体の責任で作りました。行政は名前については一切責任を持ちません。これは東京都も同じです。名前の記録を行政として責任を持って行った地域はほとんどないですね。特に大都市ではそれが顕著です。

 

-それはなぜでしょうか?

行政としては、プライバシーの問題があるのでしょう。また、補償の問題に関わってくるという事情もあると思います。行政が犠牲者の認定をすることになるので、では補償は、という話になることを恐れているのでしょう。

 

次は ➡ 超党派議連による立法の動き

 



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